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こうや清の自己紹介

私、高谷 清の自己紹介をさせていただきます

早稲田大学へ

 昭和22年(1947年)12月4日、茨城県結城郡八千代町に5男5女の末っ子に生まれ、現在は66歳です。

 地元の小、中学校から県立下妻一高から早稲田大学へ。学生時代は根っからの正義感と憂国の情から、当時荒れ狂った共産党を中心とする学生運動に義憤を抱き、仲間とともに彼らとの闘いに明け暮れる日々でした。

 民社党代議士の秘書になったのを機に、大学を中退。以後、政治活動、社会改革運動に没頭してきました。平成7年4月、神奈川県議会議員に新進党で初当選、議会では破たん寸前の県財政に行財政改革待ったなし、とまっしぐらに取り組んでまいりました。

民社党党学校で街頭演説の特訓を受ける

 2期目の選挙は中央政界の離合集散に嫌気がさし、「地方議会は政党関係なし!」「神奈川県民党だ!こうや党だ!」と自信過剰も手伝って無所属で立候補。苦杯を舐めてしまいました。

平成15年4月、県議会へ復帰。復帰後すぐに文教常任委員会委員長に就任、教育改革に情熱を注ぎ、建設常任委員会副委員長として公平・公正・透明性の確保、地元中小企業の育成強化を目指した入札制度(神奈川方式)などに取り組んできました。

 2期目、3期目と期待に応えようと力一杯議会活動に精を出し、特に3期目は民主党県議団の団長として先頭に立って議会改革にも挑戦をしました。

 ところが4期目を目指した前回の選挙は、民主党政権下で起きた東日本大震災直後、周章狼狽の菅内閣の無為無策ぶりに怒り頂点に達し、民主党は大逆風。それでも「こうやは大丈夫!」との周囲の声に乗せられ、踊らされ、自分の慢心も加わって誰もが驚く「まさかの落選」2万3千票を頂くも、全国一の423票の惜敗率で再び臥薪嘗胆の4年間を過ごすはめになってしまいました。

 現在、"弱い高谷 清から強い高谷 清への人間改造"に取り組みながら、初心に戻り、選挙は足の基本に立ち返って地域活動に専念しております。趣味はスポーツ、特に野球、(全然上達しない)ゴルフ。家族は家には女房と二人ですが、息子と娘の子、孫4人の好々爺です。

地域と行政を結ぶホットラインに徹し頑張ってきました

 私は、地方議員の仕事は地域の皆様の行政への要望をお聞きし、現場に赴き、この目でその必要性を肌で感じ、その必要性と実行を行政に強く迫る!地域の皆様と行政を繋ぐことだと考え"地域と行政を結ぶホットライン"に徹し、終始一貫この姿勢を貫いてまいりました。 

 要望内容が、県会議員のテリトリーでなくても、地域の皆様には国・県・市の管轄権限など関係ありません。行政という一括りなのです。

 私は同僚の国会議員、市会議員の協力を仰ぎながら、中央官庁へ又は横浜市役所へ出向いて一件一件誠意をもって役人サイドに立たず常に地域の皆さんのサイドに立って解決に努力を傾注してまいりました。

「出来る!頼れる!地域の議員!」

この姿勢は最後まで貫いてまいります。

学校橋
私が保土ヶ谷区に来て最初に携わった学校橋。丸太を渡した簡易橋から永久橋に
(西谷町)
すり減った大谷石の階段から安全・安心の階段へ
(岩井町)
所々に石を置いてあるだけの未舗装の坂道、私道整備助成制度を活用し、安全な階段に
(上星川町)
生活道路の交通安全対策、カーブミラーの設置要望が一番多い
(川島町)